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第六編 大学令下の早稲田大学

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第八章 新図書館と大隈記念講堂

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一 御大典記念事業の終結と新図書館の落成

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 大正十四年十月に落成した新図書館の建築は、大正四年十一月の大正天皇の御即位大典記念事業の一環として、恩賜館研究室の増築等とともに実施されたのであるから、先ず該事業に触れておかねばならないが、その趣旨、資金、設計、予算、募金方法等の概略は既に第二巻第五編第十章に記述したので、ここにはそれに洩れたところを補うに止める。

 このときの資金募集は大変好成績をおさめたのであるが、先ず学苑がどのように準備をし、組織作りしたかを『早稲田学報』(大正四年十一月発行 第二四九号 五―六頁)により日を追って見ると、次の通りであった。

九月十五日 大学教育の生命たる研究機関の設備計画を以て御大典記念事業とし、この資金は江湖同情者の寄附賛助に待つの議を決す。

十九日 校友大会で学長より計画を発表(築地精養軒)。

二十日 新旧学長交迭式で学長より計画発表(校庭)。

二十二日 理事会で資金募集委員制度を決め、市島謙吉を委員長とする。

二十三日 校友会幹事会において天野学長、市島委員長より腹案を説明、賛同を得る(日本倶楽部)。

二十五日 維持員会において、これまでの説明あり、またこれに関する諸決議を報告してその承認を得る。

二十七日 市島委員長大阪ホテルにおける招待会に出席し、記念事業につき説明し、同地評議員および主なる校友の賛同を得る。

二十九日 御大典記念事業臨時事務所を大学本部に設け、校友関太郎を主任とする(理事会決定)。

十月一日 学生中より募集委員を選出して、大学これを任命す。

十日 評議員会で記念事業につき説明、賛同を得る。評議員全員資金募集委員に就任を快諾(日本倶楽部)。

 この間に選出された御大典記念事業委員のうち、中央委員は市島委員長以下教員・校友合せて一二四名であった。また地方でも横浜市一九名、大阪市一三名等、地域ごとに委員が選出された。このように準備も整い、委員会組織もできたので、募金を開始することになり、第二巻八二九頁以降に引用したように、皇室より与えられた特別の恩寵に報いるため大典を表慶する事業を計画したことと、その事業として研究機関の整備を選んだこととを記した「御即位大典紀念事業計画趣旨」と「資金募集規定」および「設計並ニ予算ノ概要」を作成・配布した。

 この募金運動では、五年四月頃までは申込みがあまり活発でなかったが、その後三井、古河など財界からの大口寄附が集中して六月初旬には予定額に達し、最終的には予定の倍を上回る六十三万円余(鴻池善右衛門、蘆田順三郎、原田二郎の寄附した軽井沢の土地見積額を含む)に達した。このような好成績を挙げることができた原因は、第一に御即位大典奉祝という大義名分が人々の共感を得たところにあろうが、五年十月までは総長大隈が同時に内閣総理大臣の要職にあって国民の輿望を担っていたこと、また第一次世界大戦勃発後大正七年まで続く未曾有の好景気に際会したことに依るところが大であったと思われる。前記のように大正五年四―六月以後急激に資金応募が増加したことと、この頃日本における事業計画資金・全国銀行預金高などが急激に上昇したこととの一致を見れば、その事情は明らかなのである。

 計画工程は後日変更されたが、六年四月には恩賜館増築の基礎工事を起し、七年三月に至って一九八坪二合七勺(約六五〇平方メートル)の増築を終った。従来片翼であった恩賜館は、この工事により漸く左右均斉の外観を具えるようになった。この年十月には、森村豊明会(代表者森村市左衛門)の寄附(五六、〇〇〇円)に係わる資金を充てた木造平家建一八坪二合五勺(約六〇平方メートル)の付属建物を持つ煉瓦造二階建、延坪三〇三坪(約一、〇〇〇平方メートル)の応用化学実験室が竣工した。

 水力実験室、高圧実験室、建築科研究室等の建設および正門の移転もこの計画の一環とされていたが、後に述べる図書館の場合と同じく施行が遅れ、水力実験室は大正十一年四月、正門は十四年十月、他は十五年九月に竣工した。

 ところが記念事業の中心であった図書館と研究室の新築は意外に着工が遅れてしまった。学苑が作成した「設計並ニ予算ノ概要」に見られる(第二巻八三一頁)ように、最初の計画では研究室は図書館に接して設けらるべきものと考えられており、この計画を推したのは高田名誉学長だった。すなわち高田は、『早稲田学報』(第二四九号)が「研究機関設備に対する学園意見の一般」という特集をしたとき、その意見「早稲田大学の宿題御大典紀念事業に依りて解決せらる」で次のように述べたのである。

自分は、……明治三十三年に早稲田大学を造る時に当つても、先づ第一着手として図書館の建築を為し、仮令大学の経営に失敗するとも、図書館だけは永遠に伝へなければならぬと云ふ方針を執つたのである。……抑研究設備が大学に必要なる所以は今更言ふまでもないのである。日本の大学教育が、世間に年限短縮の声の起る程に、世界無比の長い年限の間学生を拘束して置く仕組であるに拘はらず、其の結果が充分でないのみならず、学問の程度が欧米の諸大学に比して遜色のあるといふのは、畢竟するに研究科の設備の不充分なるに原因すると云つても宜しいのである。……研究設備の完備すると否とが、大学と非大学との別るる所と言つても宜しいのである。

と、図書館と研究室の整備を重視する発言をした。そして更にドイツのライプチッヒ大学参観の際、その研究室が大学構内の各所に散在しているのを不審とし、質問したところ、自然の発達の結果このようになったので、頗る不便・不経済であるという当局者の返事を得た経験を述べて、

其以来、自分は、研究室なる者は図書館の閲覧室を中心として其の周囲に造らなければならぬのである。然らざれば、不便・不経済は免かれぬ事になる。例へば、同一の書物を研究室毎に別々に備へなければならぬといふ様な弊が起つて、頗る無駄な事になると深く感じたのであつたが、亜米利加に渡つてから、新式の研究室を見ると、丁度自分の思つた通りに図書館閲覧室を中心に其の周囲を研究室に充て、各研究室を特別なる専門図書の書庫に併せ用ふるといふ仕組になつて居るのを発見したのである。今度早稲田大学に於て、幸にして此事業に着手せらるる事となつたならば、特に此点に注意されて不便・不経済の結果を予め避けらるる様にありたいと思ふのである。 (二一頁)

と自説を展開しているのである。これに対し、教授大山郁夫が「研究機関の完備はヒューマン・エフィシェンシーを増進する所以なり」と題して、

余りに図書館中心主義の一面たる経済主義、換言すれば書籍流用主義に固執して必要なる研究室専用の書籍をも買渋ると云ふ様な窮屈を感ずることのない様に……仮令既に一般図書館に備付けあつても、各研究室に不自由を感じない様に特別に備付けて貰ひたい。 (同誌 同号 二八頁)

と述べているように、高田の説にも問題点がなくはないが、当時の構想としてはやむを得ないところがあり、妥当な提案だったと思われる。しかるに着工延期後、実際の設計に当っては、館内に一応教授・講師の研究室とともに大学院生用の研究室を設けてはいるが、三層の研究室および閲覧室を新築するとの当初計画は大幅に変更された。

 では何故遅延と変更とが生じたか。図書館建設案審議開始の頃は、ちょうど「早稲田騒動」の時期であったから、一見それに関係ありそうに想像されるが、「早稲田騒動」のピーク大正六年においてさえ、恩賜館の増築等が着々と進められていたのを見落してはならないのであり、新図書館開館式に当って出された「御即位大典記念事業経過報告」に、恩賜館増設工事等の報告に続き、「尚ホ、引続キ所定ノ工事ヲ進ムル予定ナリシモ、同年〔大正七年〕末発布セラレタル新大学令ニヨリ、学園組織ノ改造焦眉ノ急ニ迫リタルガ故ニ、暫ラク事業ノ進行ヲ中止シ」(同誌大正十四年十一月発行第三六九号五頁)とあるように、大学令による大学開設の準備に追われたことと、図書館だけでもその必要な坪数が延一、一九五坪(約三、九四四平方メートル)に達し、研究室を含めて一、〇七二坪(約三、五三八平方メートル)の当初計画を超過する大規模なものに変ったこととが、延期と計画変更を生んだものと思われる。

 さて大正九年、学苑は大学昇格に伴う諸準備、特に高等学院開設等に忙殺されたが、大正十年に至って漸くそれらも一段落したので、いよいよ図書館の建設に着手することになった。そして先ず二月一日付で図書館建設委員会を組織し、市島謙吉(名誉理事)、塩沢昌貞(理事)、田中穂積(理事)、前田多蔵(幹事)、安部磯雄(図書館長)、佐藤功一(建築学科主任)、内藤多仲(理工学部教授)、小林堅三(図書館事務主任)、金田恭介(臨時建築係)、桐山均一(臨時建築係)の十名を委員に委嘱した。

 十二年に至って委員の一部入替があった。すなわち安部館長の辞任、林癸未夫の新任などに伴って、旧委員中安部、前田の二人が辞め、林、名誉教授坪内雄蔵、幹事難波理一郎が新任されたことが大正十二年十一月十五日維持員会で報告されている。続いて八月の夏季休暇中に、図書館閲覧室を移築し、建設敷地の用意を整えた。しかし大金を投じ、学苑研究施設の中枢となるべき図書館を建設するのであるから、旧図書館書庫の利用等につき議論百出し、容易に意見がまとまらず、その上大震災に際会する等で、着工は延び延びになった。漸く大正十二年末に至り現図書館敷地に建設が決まり、十三年二月八日の維持員会で、建築費概算三〇〇、〇〇〇円、設備費概算八〇、〇〇〇円の新築費が可決されたので、新たに計画が立てられ、三月上旬に理工学部教授内藤多仲の手で設計が完了した。技師桐山均一が内藤の指導の下で実際の工事監督に当ることになり、同月十八日指定競争入札を行った結果が、四月八日の維持員会報告に見える。

一金二八三、七〇〇円 上遠組

一金二九三、六〇〇円 大林組

一金二九八、〇〇〇円 竹中組

一金三一二、〇〇〇円 戸田組

一金三六四、八〇〇円 清水組

第二図 図書館平面図

大学は最低入札者上遠組(上遠喜三郎)に工事を依頼し、四月二十一日地鎮祭を行い、直ちに建設を開始した。十四年十月に竣工した新図書館の規模は左の通りである。

坪数 延坪数 一、一九五坪

表三階書庫五階(間口一八間奥行一九間)

閲覧室 一三二坪

書庫 四〇五坪

其他 六五八坪

収容人員 閲覧室 五〇〇人

構造 近代式鉄筋「コンクリート」構造

特ニ書庫鉄骨鉄筋「コンクリート」構造

床鉄筋「コンクリート」構造

壁体鉄筋「コンクリート」構造

屋根鉄筋銅板造リ

館内設備 第一階ニハ広間、応接室、事務室、館長室、研究室、参考品陳列室等アリ。

第二階ニハ学生閲覧室、目録室、貸出室、教員休憩室等ヲ配置シ、地下室ニハ暖房気鑵室、職員及閲覧者食堂、製本室、小使室、倉庫等ヲ設ク。

書庫ハ本館ノ背面ニ在リテ五階トシ、其内部ニ教員研究席ヲ併設セリ、其ノ屋上ハ平面ニシテ展望及休息ニ便セリ。

(『早稲田学報』第三六九号 附録)

 建築委員の一人内藤多仲が『早稲田学報』第三六八号(大正十四年十月発行)に寄せた「新築図書館の建築に就て」の一部を左に引用しよう。

新図書館の配置は学園の将来の計画に基いて立案せられ、鶴巻町通りを真正面に受ける様にしてある。その規模は延坪約千二百坪、目録室一〇〇坪、閲覧室一三二坪三百八人を容るべく、書庫四〇五坪六十万冊を蔵することが出来る。尚将来の建増を加算すれば優に一百五十万冊を容るることが出来るのである。玆に特筆すべきは、数箇の研究室の外に書庫内各窓際に数十の机を配置し、各個人の研究に便したことでこれは本館の著しい特徴である。外観に当建築の構造主体である鉄筋コンクリートの機能を活用すると共に質実・豪放・端正な態度を示す手法を採用した為め、外貌には何等微細なるデテールを用ひなかつたのである。……建物の構成に対しては終始無駄なきを期し、機能の実現に重きを置き、随つて各詳細部に渡つて多少の変化律を織り込み、視覚感覚への愉快さを導く事につとめた。それから図書館計画の裡に最も注意を要する事は将来の拡張のことである。そこでこの図書館に於ても第一期、第二期の書庫拡張計画の実施がいつでも出来る様にしてあるので、現在外観に現はるる型態も自から「コンプリート」したものにならないのである。……閲覧室、図書借出室、書庫のこの三者の関係は学生・教授・図書館員の相互の便利のもとに円滑なる連絡を必要とするもので、つとめて各出入口、階段系統の統一を計つたのである。 (三―四頁)

 多数の人々の善意と努力とが稔って、東洋一を誇る大図書館が学苑の中枢に巍然として聳立するに至ったが、これまでの経過を簡単に回顧すると、学苑創立の当初は、講堂の二階八畳の部屋が図書室に充てられたものの、僅かに二個の書架に並べる書籍がなく、大隈家に蔵書の寄附を乞い、他の教職員の寄附も得て、漸く形を整えたに過ぎなかった。その後明治十七年に同攻会が成立し、同会の蒐集した書籍が会員に閲覧させる目的で図書室に委託され、漸く図書館の基礎ができ上がった。やがて図書室は階下に移されたが、相変らず狭い閲覧室と小さな書庫があっただけであった。明治二十二年に煉瓦造りの最初の大講堂が建てられると、そこに書庫と閲覧室と事務室とが設けられ、やや設備は整ったが、なお狭隘で、未整理の図書が積み上げられて実数も調査できない有様であった。そこで三十五年九月、早稲田大学と改称したのを機に、新しい書庫と閲覧室を持つ図書館が開館された。書庫は煉瓦造り三階建で、建坪は五四坪(約一七八平方メートル)、室は六つあって、合計二一六の書架を持ち、約二〇万巻の図書収容力があった。また閲覧室は木造二階建で一二五坪(約四一二平方メートル)、四五〇人の利用が可能であった。こうして漸く名実ともに備わる図書館が誕生したので、初代の専任の図書館長として市島謙吉が選ばれて大正六年まで在任した。その後館長は、戦前において安部磯雄林癸未夫と引き継がれたが、歴代館長、特に名館長と謳われた市島の努力により、図書目録、カード等が整備されると同時に、蔵書数も増加し、閲覧者数も激増した。かくて旧図書館が狭隘を感じるに至ったので、新図書館の建設に踏み切ったのであるが、その落成に至るまでの経緯を、大正十四年十月二十二日、市島は『日間瑣録』八に左の如く記述している。

図書館の建築には自分が最も関係が深い。御即位大典を記念するため今より十年前自分が主として其衝に当り、三十万の資金寄附を募った。其成績が案外によくつて六十三万の応募を得たので、図書館の外に恩賜館の拡張をも紀念事業に加へることとなつた。恩賜館の拡張は早く成つたが、種々の事情、就中新大学令発布のため高等学院を設くることが急であつた為め、図書館の建築は追々後れて昨年に至つた。此間十年余、旧図書館は如何にも見すぼらしい有様で、閲覧室のごときは仮りに土台を据へそれへ乗せて新館設置の日、直に他へ移し得る様になしたまま、六、七年も経過した。施設の急ぐべきものが多かつたとは言え、自分としては遺憾に堪へなかつた。然るに大激震があつて大講堂がつぶれ、折角計画した大隈侯紀念講堂の建設も頓挫したが、災後幸に図書館を先づ起すこととなつた。但し今度は三十万円規模でなく、それに幾倍する規模とした為めに一回で全部完成する訳に行かず、先づ五十万円ばかりで出来る丈のことをやり、余は他日に期することとなつた。併し此の館の出来たのは何人よりも自分は満足に感じた。実は震災後早稲田大学で建築経営をやつたものは意外と多く、復興の遅々たる世の中で不如意の私学経営としては誇るに足りると思はれ、夜学工手学校の製図室、学生ホール、運動場のスタンド、震火に焼けた理科のラボラトリーの復興、同じく震災で潰れた学校周囲の墻壁の復興など数へ来ればなかなか多く、図書館とも併せて百万円ばかりの工費は此の三年間につかはれてゐる。此等工事の関係から学校内建物の整理も略々出来て、これ迄乱れてゐた諸建築物も幾年か前に作られた予定整理図にもとづき漸やく適当の格好を保つ様になつた。正門の位置が変つたことや、復興のラボラトリーの前の道路が学校の敷地内に入つたことなども変化の一、二である。兎に角此等のことを災後に遣り得たのは、学校当局の大なる手柄と称せざるを得ぬ。……図書館の位置や設計に就ては自分が委員長となつて幾回となく相談もしたのだが、いろいろの変遷もあつて大体よく出来た。外部が質素に見へて堅牢を主とし、デコレーシヨンも俗を離れ、内部の装飾も東洋芸術を加味し、玄関の扉を始め屋根も雨樋も閲覧室の燈もすべて銅を用ひたのは最も吾意を得た。追々年月を経るに従ひサビを生じて老蒼の味を有つであらうと思ふ。閲覧室の天井の高いのは何よりである。机や椅子も思ひ切つて立派なものを用ゐた。これでこそ閲覧者に快感を与へるであらう。まだ装飾方面で未成の処が少なくない。追々出来上つたら一層美観を添へるであらう。館内に備はるべき研究室が今の処数の少ないのは遺憾であるが経費の都合上第二次の増築の時を待つの外は無い。書庫のスチール・スタツクの第一層の架の高さが狭いのは困つたやり損じだが、薄い鉄板を厚板に代へれば、どうにか尺長の本も立つであらう、地下のスタツクに貴重書を入れる趣向であるが、湿気が侵しはせぬか、技師は大丈夫と云つておるが疑問である。地下室の広さに就ては委員会で自分から切に広きことを主張したが、その通り出来て頗る便利である。館全体の補強に付ては其道の内藤博士が工風を凝らしたから申分なからう。尚瑣事に就て一、二を云へば事務室の入口に一双の羊の石像があるのはゴルドン夫人から寄せられた紀念物である。羊は書物と縁因がある。同時に柔順の意味もある。此の石刻を事務室の入口に置いたのも皮肉と云へば皮肉であるとも云へる。玄関にある六本の円柱を白亜に塗ることを担任した左官が精根を凝らした芸術的プライドは、其の塗りの成らんとするとき其の妻を伴ひ来り、半日も仕事を廃して其の苦心を妻に語つたといふエピソード〔により裏書され〕る。

 図書館ができたときこれとは別に、学生の諸会合、食堂に供する学生ホール、理工学部学生と工手学校生徒の利用のための製図教室(鉄筋コンクリート三階建、建坪四二二坪三合=約一、三九〇平方メートル)および野球場、プール等が竣工した。なお製図教室の建設費概算は設備費とも一〇〇、〇〇〇円で、大正十三年十二月八日の定時維持員会報告によれば、これは借入金で賄ったのである。

 そこで、これら各種の施設整備を祝い、大正十四年十月二十日午後二時より、今回の記念事業に甚大な好意を寄せられた人々を招いて、新図書館その他の開館式を新製図教室において挙行した。喜びに溢れた高田の式辞は、先ず各施設整備の経過と意義に触れたのち、新図書館について次のように述べた。

此大典記念事業の中心の仕事である所の新図書館のことに付いて、稍や詳しく申上げて見たいと思ふ。此図書館が大学学園に必要であると云ふことは申す迄もない。私が明治三十三年に東京専門学校を大学組織にしたいと云ふやうな所謂妄想を抱きました。大隈老侯に申上げた所が非常に御賛成下すつて、是非やつて呉れろ、自分は後ろに立つて世話を焼くと云ふことで、其結果早稲田大学と云ふものが出来上りましたが、其当時私立で大学と云ふものが出来るか、出来ないかと云ふことが問題でありました。無論政府は出来ないと……永久に出来ぬとも思ひますまいが、未だしと思つて居たのであります。私自身としましても何処迄行けるものか、甚だ心細いやうな感じがしましたが、夫れでも私は出来ると度胸を極めました。兎に角一番先きに図書館を造る、相当な図書館が出来れば大学が出来たと同じである。外のものの設備も完全であれば夫れに越したことはないけれども、愈々間違へば屋外でも教へられる、プラトーは森の中で教へた、孔子は方々漂泊しながら講釈をしたではないか。兎に角図書館を設けて書物があると云ふことにならなければならぬから、愈々間違つたら此図書館丈け残れば夫れで宜しいと云ふ位な考で其設備に着手を致して、そこに御座います煉瓦の書庫と今は外のものに利用して居りますが閲覧室を造つた。之は其当時では大したものであつた。けれども段々年月を経るに従ひまして書庫も狭くなつて、買う本も貰う本も入れる余地がない。閲覧室も狭くて仕方がない。斯う云ふことでどうしても外観の美を添へると云ふことは第二であつても、学校の内容充実と云ふ上から図書館閲覧室の新築をしなければならぬ、又一日も早く出来上らせなければならぬことであつた。それが此度漸く出来上ることになりまして、皆様方に御覧を請うことになりましたのは学校関係者一同の深く歓ぶ所であります。……今日は早稲田大学のみならず、総ての私立大学が、帝国大学と同じ地歩を占め同じ特権を享有するに至つたことは誠に結構なことであります。段々世の中の人の頭も進んで来たから左様になつたのである。又一面から言ひますると、慶応とか早稲田とかいふ私立大学が大学と云ふても余り恥かしくないやうに成長した此事実と云ふものも、多少力があつたかと思ふのであります。兎に角今日は大学は官・公・私立平等になつたと云ふことは大したことではないやうでありますが、そこ迄漕着けると云ふことは之は容易なことでない。斯うなつて見ますると、もう早稲田ばかりに限りませぬ、何処の大学の人々もさう考へて居りませうが、どうか自分の大学を他の大学に劣らないやうにしたいものである、即ち早稲田は四十五年迄にまだ二年を余すのでありますが、其四十五年と云ふ所を一期と致しまして、夫れ迄に出来る丈け内容外観を整へて、今日の大学中でも他にさう劣らないもの、遜色無いものと言はれたい。是が苟くも学校に関係して居る私共の希望であります。又それが為めに皆様方に非常に御迷惑を掛け御助力を請ひましたことを、重ねて御礼を申さなければならぬ。 (『早稲田学報』第三六九号 三―四頁)

 このあと、渋沢が故総長大隈重信の年来の知遇に感激し、その東京専門学校創立の卓見に敬服せざるを得ぬ旨を述べ、この日の盛典を喜ぶと祝辞を結んだが、高田の式辞の中で今回の記念事業の功労者として挙げられた市島委員長、平沼、塩沢両前学長、常務理事田中穂積をはじめ学苑関係者一同の喜びもさることながら、創立以来常に図書館の重要性を強調し、研究機関の中枢としての図書館の働きを重視して来た総長高田の感慨は一入のものがあったであろう。それにしても功労者の一人である田中唯一郎(第二巻九七七頁参照)が故人となったのは惜しみても余りある。

 『早稲田学報』(第三六九号折込)によると、大正十四年九月、つまり新図書館開館直前における蔵書は、和漢書六一、〇一六部二〇六、一九七冊、洋書五〇、六八三部七一、二三一冊、総計一一一、六九九部二七七、四二八冊で、また和漢書分類目録、和漢書書名目録、洋書著者名目録、洋書件名目録が整備されていた。新図書館の諸施設といい、蔵書の質量といい、また図書の整理といい、これを明治十五年の図書室と較べれば、まさに古老の言う如く「無と全との対比の如きもの」で、同じく老校友が「これで十分に自学自習の能率を発揮することが出来なければ、それは学生が悪い」と放言したという(『半世紀の早稲田』五五四頁)のも宜なるかなである。

 このとき造られた学生ホールは、小池国三の指定寄附(二五、〇〇〇円)を基金にし、それを利殖して建設したものと説明されているが、十四年三月九日、維持員会に「大隈会館内供待所、女中部屋、湯殿、及土蔵ヲ学生ホール建設ノ為メ、上遠喜三郎外二名ニ合計金一百八十円五拾銭ニテ売却シタリ」と報告されている。学生ホールは大隈会館内に建坪一〇〇坪(延坪二〇〇坪―十月完成時二二三坪七合五勺〔約七三八平方メートル〕)鉄筋コンクリート二階建として造られたが、大正十四年四月八日の定時維持員会報告によれば、この工事も三月十六日に請負入札が行われ、最低入札(四六、五〇〇円)の上遠組に工事仕様書を提出させ、審査の上工事を依頼し、図書館とほぼ同時に竣工したのである。大隈会館は学生の利用も一応認めたが、何分多数の学生に対し手狭だったので、学生ホールを学生用の倶楽部として造ったのであり、三〇〇人ぐらい収容できる大部屋と、小人数向きの小室若干を備え、またセルフ・サーヴィスの食堂を設けた。このような施設は当時他大学には見られなかったが、高田がアメリカの大学に範をとり、率先して計画したのであり、高田自身が学生ホールで昼食を認める姿も時には見られたのであった。

 基金の寄附者小池国三は山梨県の出身、若尾逸平商店に勤務、後上京して証券・金融界に活躍し、小池銀行頭取、東京株式仲買組合委員長、同株式取引所理事、東京商業会議所議員として実業界に雄飛のかたわら、第一回募金以来学苑に多額の援助を続け、校賓に挙げられたが、この年三月逝去して学生ホールの完成を見ることはできなかった。

 新図書館の開館式に当って御即位大典記念事業の経過報告があり、その中で左の如く会計報告があった。

会計報告

寄附申込金額 六三二、八六〇、七三〇

未払込金額 三四、二二四、〇二〇

収入

寄附払込金額 五九八、六三六、七一〇

預金利子 六〇、三八〇、六一〇

合計 六五九、〇一七、三二〇

支出

恩賜記念館及附属研究室増築費 四六、四五九、四七〇

研究室用図書購入費 五、三〇五、九〇〇

応用化学科実験実習室新築費 九三、六〇〇、〇九〇

機械工学科水力実験室新築費 五〇、一二一、三五〇

学生ホール新築資金 二四、五〇〇、〇〇〇

図書館新築費 四二一、八三四、五五〇

附帯工事費 六九、七三一、二五五

合計 七一一、五五二、六一五

差引不足金(基金部会計より輔充) 五二、五三五、二九五

(『早稲田学報』第三六九号 五頁)

学生ホール新築費二四、五〇〇円というのは小池の寄附額だけを挙げているので、利息等は別会計になっている。収入も予定を大幅に上回ったが、支出は更に多く予定の二倍半近くになっている。計画立案後完成まで十年を経過したので、その間の物価変動の影響もあったろうが、特に一二〇、〇〇〇円の図書館研究室新築費予算が、実際には図書館の建設だけで四二〇、〇〇〇円余を要したわけで、学苑がいかに新図書館の建設を重視し、力を入れたかが分る。

 ところで新図書館の階下ホールの突当りの正面の壁に、壁画をはめ込む予定があったが、これだけ立派な図書館ができ上がってみると、是非とも大家の名画でこれを飾りたいとの希望が生れた。そこで横山大観、下村観山両画伯に依頼することになり、画題は両画伯とも相談の上、「明暗」と定まった。これは文化と野蛮、知識と蒙昧とを意味するもので、大観が水墨を以て漠漠とした黒雲を描き、その上に観山が金泥を以て半ば現れた日の出を描こうというもので、この日の出はまた校運の隆昌をも象徴すると考えられた。用紙は継ぎ合せではどうしてもうまくいかないので、大観の懇意であった福井県今立郡岡本村の製紙家岩野平三郎に特注して三間四方の紙を造ってもらうことになった。岩野もかつてこんな大きなものを造ったことがなかったので大いに苦心したが、結局麻五分、雁皮三分、楮二分という新しい配合を工夫し、鹿皮の如く優秀なものを造ることができた。この紙は一枚十二キログラムほどの重量があり、万代を経ても変質しまいと言われた。この用紙はのちに「岡大紙」(岡は岡本村と製紙の神様岡太神社に因み、大は大学、大隈、大観等に縁があることによる)と命名された。両画伯は彩色用の金泥を京都から取り寄せ、また乾隆帝時代の中国墨を用意し、大正十五年十二月二十四日に筆始めを行い、翌昭和二年一月十日頃に漸く完成した。この絵は同月十二日に新聞記者および学苑関係者を美術院に招待して披露された上、所定の場所に掲げられたのである(林癸未夫「図書館の壁画」『早稲田学報』昭和二年二月発行第三八四号一九―二一頁)。

二 大隈記念講堂の竣工

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 記念事業の企画と、その一環をなす故総長大隈侯爵記念大講堂建設の準備は並行して推進され、大隈逝去の直後、一月二十七日の定時維持員会で、早くも建築委員の嘱託が行われた。すなわち、市島謙吉坂本三郎、渡辺亨、佐藤功一内藤多仲の五名が委員となり、学長、理事、高等学院長、図書館長もこれに与ることとなった。しかし第一回の委員会が開かれたのは、これよりずっと遅れた十二年一月二十二日で、委員のほか幹事前田多蔵・難波理一郎が出席し、講堂の位置、様式、容積等について熟議を重ねた。次いで四月十七日、同二十六日に第二、第三回の委員会を開き、協議を重ねたが、この間に大講堂の図案設計について懸賞募集することを決めた。同年五月発行の『早稲田学報』(第三三九号)からその募集規定の要点を挙げておこう。

一、設計要件

総工費 七十五万円

敷地 大隈会館(旧大隈侯爵邸)内

坪数 延千六百坪以下

構造 鉄骨鉄筋コンクリート造

収容人員 一万人 座席三千人

二、贈呈スベキ謝金

一等 一名 金四千円 二等 二名 金二千円 三等 一名 金一千円

猶選外佳作若干名ニ対シテ多少ノ金額ヲ贈呈スルコトアルベシ。

三、審査員

名誉学長 高田早苗 学長 塩沢昌貞 理事 田中穂積 教授 岡田信一郎 同 吉田享二 同 内藤多仲 同 今和次郎 同 佐藤功一 (一四頁)

実はこの頃までに佐藤功一の指導の下で、理工学部助教授今井兼次により、収容人員一〇、〇〇〇人座席三、〇〇〇人の計画で、講壇を楕円形とし、観覧席の壁を凹形に彎曲させて、講堂そのものの平面は鐘のような形をした平面図ができていたが、建築学科出身校友の全国的懸賞募集を望む声が強かったので、右のように決まったのである。

 この懸賞に対する応募総数は一四五点に達し、一等には前田健二郎・岡田捷五郎(合作)、二等には水谷武彦、三等には矢部金太郎がそれぞれ当選した。「一等案をはじめ、おおむねセセッションスタイルのものが多かった」(明石信道「大隈講堂の設計談叢」同誌昭和五十二年十月発行第八七五号二頁)が、既存の大隈会館・庭園と不釣合であったため、遂にそのまま採用されることなく終った。それで計画は再び原案に戻り、鐘形の外側を矩形の平面壁で囲む方法が検討されようとしたとき、たまたま関東大震災に際会し、作業は一旦中止された。その後も委員会は計画の前進を図ろうとしたが、震災の痛手はあまりにも大きく、作業は結局大正十四年まで再開されなかった。

 十四年に入ると四月から図案に着手し、製図、構造強度の計算、仕様見積書などの作成に十二月まで九ヵ月を費やしたが、この間に、一二五尺の塔(この高さは故総長の人寿百二十五歳説にあやかったのである)を建て、時計と組鐘を付けること、大講堂をいたずらに大きくすることは避けて、地下に小講堂を設けることを定めた。「エストベルク作のストックホルム市庁舎に範られたような構成の」(同誌同号三頁)この新しい設計図の作成は、今井に代り助教授佐藤武夫が担当したが、設計各部門の担当者は次の人々であった。

建築主任 教授 佐藤功一 顧問 教授 内藤多仲、同 岡田信一郎、同 吉田享二

構造強度計算 教授 内藤多仲、助教授 福島雅男 製図 助教授 佐藤武夫、十代田三郎(大正十五年六月助教授)

衛生工事 助教授 大沢一郎 一般電気照明 助教授 上田大助 音響効果 教授 黒川兼三郎、助教授 佐藤武夫

舞台照明 遠山静雄

仕様見積作成工事主任技師 桐山均一

技手 鈴木松太郎、江口義雄、長谷川義三、岸本亀治、中村春好、篠原規矩雄

第三図 大隈講堂平面図

(『早稲田学報』第393号 75頁)

 大正十五年に入ると、こうしてでき上がった設計図ならびに仕様見積書によって入札が行われ、二月八日の維持員会で戸田組(社長戸田利兵衛)に建築工事を依頼することが決まり、二月十一日に地鎮祭が行われ、いよいよ工事が進められることになった。

 それからおよそ一年八ヵ月を経て、故総長大隈重信を記念する大隈講堂は完成し、この記念事業に下賜金を与えて奨励された皇室に対し、総長高田早苗は昭和二年十月十五日宮中に参内して御礼を言上した。この大講堂の建設は、当時としては支柱が一本もない例の少い工事であったが、この長い工期中に一人の怪我人もなく、何らの不祥事も起らなかった。

 さて多数の関係者の寝食を忘れた精励と、更に多数の人々の厚意あふれた醵金と応援とによって作り上げられた大隈記念講堂は、いかなる規模のものであったろうか。講堂建築主任として建設の総監督を務めた佐藤功一は、竣工の式典で左の如く報告している。

本建物は地上三階、下に総地下室を設け、其建坪は三百九十七坪余、地上七階の時計塔を加へて総延坪千百七十一坪となるのであります。総体が鉄筋コンクリート耐火構造でありまして、大講堂の部分は特に其の骨組に鉄骨を用ひたのであります。コンクリートの使用量が五百三十立坪、鉄筋の重量が三百八十噸、鉄骨の重量が三百噸、職工の総人員が三万七千五百人を算する結果となりました。此計画は御覧の通り大講堂を主と致しまして、尚ほ此の下に小講堂があるのであります。そしてそれを中心と致しまして、其廻りに各付属室を設けましたのであります。此大講堂の観聴席の大さは其幅前方で四十尺、後方で七十五尺、長さは是れから真直に所謂平土間の奥迄八十尺ありまして、また是れから斜めに二階桟敷の最後の椅子背迄百尺あるのであります。此の高さは中央部で四十尺あります。雑音を避けます為めに廻りに窓を設けることを避けまして、壁の形、天井の形、其仕上材料に至る迄、悉く音響上の問題に基いて造りましたので、一つと雖も形の美の上から斯う云ふ風にしやうと巧んだところはないのであります。観聴席の数は建築条例其他から支配されまする為め、所謂平土間の方に千二百、桟敷に九百、合計二千百といふことになつておりまするが、高田総長の御話になりました通り、ギツシリつめて五千人、是が皆立ちますと一万人這入ることになります。此下の地下室には座席八百、詰めまして其二倍以上を収容することの出来る小講堂があるのであります。それで此講堂は御覧の如く、後ろに緩やかに上ります所の直進式の傾斜を持つて居る。斯う云ふ聴衆席は之は近来の行き方であります。此形に於ける是れ丈け人数の這入ります大講堂は、恐らく今のところでは日本一であらうと思ます。此点は我々早稲田の講堂として誇り得る点だらうと存じます。外壁の高さは前面で五十九尺であります。塔の高さは百二十五尺、大隈老侯が兼々仰せられた百二十五の数が出て居ります。外側は出来得る丈け大学らしく、大学の講義室らしいと云ふことに考案を払ひました。そして出来得る丈け安定と堅牢の感を与へやうと努めました。併しながら安定と堅牢の感を与へやうとしますると、結果は何時も硬く冷たくなり勝ちであります。之を調和する為めに淡黄色のテラコツタと褐色の中に白い斑のあるタイルをあしらひましてこれを以て壁面を被ふたのであります。時計塔の頂上には四つの組鐘が付いて居るので、時毎に或曲目を打ちます所謂チヤイムでありまして、必要がありますときには別に手を以て自由に連続して打つことが出来るのであります。此の塔上のチヤイム・ベルはこれも恐らくは日本では初めての試みでありませう。鐘は日本では出来ませぬので亜米利加ボルチモア市のマクシエン会社から取りよせたのであります。

(『早稲田学報』昭和二年十一月発行 第三九三号 一八―一九頁)

 竣工後半世紀、明石信道の記すところによれば、

外観も内容も彫りの深いモダーンだと多くの建築家は評しても、人々にゴシックの基調の現代版という印象を与えたせいもあったからだろう、特に目立つほど華々しく当時のジャーナリズムは取上げなかった。その点は甚だ損をしていたようにみえるが、今日なお超時代的に教育を代表した建築感覚を社会に与えているのは事実である。これは古典の強みか、それとも佐藤功一博士の慧眼というべきか、この講堂の印象の生命の長いのは早稲田大学としては大きな成功であった。

(同誌 第八七五号 三―四頁)

 また、『早稲田学報』(第三九三号)に所感を寄せた各パートの設計者たちも、それぞれ成果に満足して次のように述べている。先ず全般の設計を担当した佐藤武夫は、ル・コルビジエの唱えた新しい機能主義支持の立場から、この講堂設計に当って、「視ることに対しては視線の吟味、座席の配列法、床面の勾配。聴くことに対しては積極的に音響強度の平等分布(天井・壁の形状により)、及び余韻時間の適当調節(材料撰択とその布置)、収容率に対しては許し得べき範囲内の程度なる座席の集約と極度なるギヤラリーの前出。これ等の機能に対する設計への神経が注がれたことは他の何物にも増してでした」(八三頁)と述べ、また構造設計を担当した内藤多仲・福島雅男は、「今日大講堂の、この二階ギヤラリーが総ての設計の点に於て多くの人々の注目の的となつて居ると同様に、これが機能を充分発揮せしむるために在来我国で例を見ない特殊な構造手法を採りたる点〔二階を支えるのに柱を使っていない〕に於ても、又注目に価する者であらう」(七九―八〇頁)と述べ、音響関係に努力した黒川兼三郎は「講堂内は何等此の種の補助装置〔拡声器など〕を借らず式典を挙行したのである。これは関係当事者の音響問題に対する確信を物語るものと御察しを願ひ度いのである。而して其の結果は予期通り場内に至る所満足な効果を得たのである」(八五頁)と述べ、舞台照明の設計に当った遠山静雄は、ホリゾントの設備(当時は築地小劇場と東京朝日新聞社講堂と大阪朝日会館に設備されていただけであった)、フロント・ライティング等の完備を誇り、工事の実施を監督した桐山均一は、工事の困難であったことを叙したあと、「僅かな資金で之だけの立派な講堂を仕上げた事、其事だけでも如何に此の事に関係した人々が献身的な努力を惜まなかつたかが明瞭である」(八八頁)と述べている。

 なお、大講堂の舞台には海老茶色の緞帳が高島屋により調製された。市島の手記『雅間録』八(昭和二年十一月二十五日の条)には、これに関して次の如く記載されている。

此の色が校色である。偶然シカゴ大学の校色と同一であるのも一奇だ。此色はマルーンと云ふのだが、早稲田の各科には紅・白・紫・緑さまざまある。それを交ぜ合はせると、此の海老茶、即ちマルーンの色になるのである。

すなわち第四編一四九頁に既述の如く、明治末にはまだ海老茶と決定していなかったスクール・カラーは、この時期には確定されていたことが知られるのである。

 ともかく、佐藤功一が記念祝典で誇らかに述べたように、その建築のすべてが早稲田学苑の関係者ならびに卒業生によって遂行された大講堂は、全体の構造といい、音響効果といい、また舞台照明といい、当事者達の言明する如く斬新で、当時の日本建築文化の最先端を行く見事なでき栄えを示し、しかも既設の大隈会館・庭園と見事な調和の美を見せながら、今や漸くその全容を現した。以後三十年、記念会堂落成に至るまで、大講堂は入学式、卒業式その他学苑の重要行事の会場となり、母校の象徴として、多数の校友の脳裏に忘れることのできない想い出を焼きつけたのであった。

三 創立四十五周年祝典

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 昭和二年、創立以来四十五周年を迎えた早稲田学苑は、大講堂の竣工祝いを兼ねて盛大な記念祝典を挙行することになり、十月十九日より二十四日まで、二十日の式典を中心に、次のように盛沢山な行事を企画し、遂行した。

 十月十九日午後一時より大隈信常、同夫人、令嬢、高田早苗、同夫人以下五〇余名が参列し、小石川護国寺の故総長の墓前において報告祭が執行され、総長は記念事業の成功を報告し、更に「回顧スレバ侯薨去後既ニ幾星霜ヲ経タルモ、学園ノ同人咸ナ其心ヲ一ニシ、相輔ケ相携ヘテ、其ノ発達ニ努力シ、校運益々隆ナリ。今ヤ侯ト吾人ト幽明境ヲ異ニスルモ、侯ノ英霊必ズヤ其然ルヲ知リ給フコトヲ疑ハズ」(『早稲田学報』昭和二年十一月発行第三九三号三六頁)と、学苑発展の様を故総長の霊に告げた。この告文のうちに、故総長の庇護の下に成長して来た学苑が、今やその翼下を離れ、堂々と一人立ちして、しかも日々発展を遂げつつあるとの喜びと自信とを示したのであった。

 午後三時よりは大隈庭園の書院の真東に当る築山の上において、大隈信常、熊子ほか一八五名を迎えて、故大隈総長夫人綾子の銅像除幕式が行われた。この銅像はかつて校庭に建設される計画があったが、反対が強くて実施できなかったものである。しかし今回は大隈庭園の一隅に、故夫人の永く起居した地をトして建立することになった。高田総長が式辞の中に述べた如く、夫人の内助の功、特に学苑を熱愛し、その面で故総長の大学に対する尽力を内面から支えた功は、関係者の熟知するところであったから、「此侯爵夫人に敬意を表し愛情を捧ぐるは当然」(同誌 同号 四二頁)で、多数列席者を得て、盛大な除幕式を終ったのである。

 十月二十日午前九時より、大隈庭園内に新たに建立された早稲田大学招魂殿前において、大隈信常以下一四名の遺族を招き、一六〇名を超える参列者を得て、招魂殿開殿式ならびに招魂祭が執行された。故総長が生前に祖神を祭っていた社殿を遷した招魂殿は、生涯を賭して学苑を今日あらしめた恩人の英霊を慰める趣旨で建立されたので、大隈重信をはじめ、学苑の事業を翼賛した先輩、僚友、教職員、校友、学生ならびに一般同情者諸氏の霊を合祀したのである。式後遺族に午餐を供し、故人を偲んだ。かくていよいよ記念祝典行事はクライマックスに達し、絶好の秋日和の下、午後二時より新装成った大隈記念講堂で、幹事難波理一郎の司式により創立四十五周年・大講堂竣工祝賀式典が挙行された。

 この日大隈講堂を埋めた来賓・校友・学生は五、〇〇〇を超え、さしもの講堂も立錐の余地なき有様で、約五〇〇名の校友、数千の学生は堂外に立ち並んで、堂上に設置された三個の拡声器に耳を傾けたのであった。式典に参列した主な来賓はドイツ、ベルギー、イタリア、トルコ、チェコスロヴァキア、デンマーク、ソヴィエト、ルーマニア、ポーランド、ノールウェー各国大・公使をはじめ、林毅陸慶応義塾塾長以下学界、教育界、政界、財界、官界、芸能界、軍部等各界の名士八〇余名に達した。

 さて参列者一同の国歌斉唱に続き登壇した高田総長は、「学園の過去及将来」と題し、次の如き式辞を述べた。

早稲田大学は満四十五年の歳月を閲しました。……今や学園学生の総数は一万四千六百名と云ふことでありまして、之を監督・指導する教職員の数は八百八十六名に達して居ります。此大学を否東京専門学校の古へより、此学園を卒業しました人々の数は二万九千七百六十一名でありますが、不幸簀を易へた人もありますから現在の数は二万五千四百と云ふことになつて居ります。併ながら学園なるものは、徒らに学生の数の多きと卒業生の数の夥しきを誇ると云ふことは、必らずしも能事でないと私は思ふのであります。之は止むを得ざる現象であるのであります。斯く多数の学生が此所に学ぶと云ふは止むを得ざる現象であります。世間から御覧になると早稲田大学と云ふものは一の学校の如く見へるかも知れませぬが、実は是は多くの学校の集まりであります。此学園の中には固より大学部がありますが、其大学部は大体に於て五学部に分れて居ります。即ち政治経済学、法学、文学、商学、理工学の各学部に分れて居りますが、尚其各学部が数多の学科に分れて居るのであります。是れ丈けでも相当学生を収容して居りますが、此大学部に入る準備としては……固より他から来た者も入れますけれ共……此大学自身が準備として高等学院と称する高等学校、而も規模・設備の頗る大なる高等学院を二つ持つて居ります。又専門学校に相当するもの、昼間のを専門部と唱へ夜間のを専門学校と唱へますが、是亦数多の学科に分れて居るのでありまして、兎に角此専門学校程度の学校が二つあります。又高等師範学校と同一程度・同一学力と認められ、同一の権利を得て居りまする高等師範部と云ふ一の学校があります。其外に夜間教育として早稲田工手学校と云ふ実際的工業教育を施す所があつて、それにも数千の学生が居りますから、前申上げた此学生の数が一万五千と云ふことは是は自然の数であります。尚近き未来に工業教育の方面に於て高等工学校を造るといふことに定まつて居りますから一層学生の数は増しませうが、兎に角内容はさう云ふ訳であつて、一の学園ではあるが一の学校ではない。故に学生の数も多数であります。而して之を所謂市場学校――マーケツト・スクール――にして置くのならば左程手も掛りませぬが、苟且にも早稲田大学と云ふ以上、此学園を学問の場所たらしむると同時に教育の場所たらしめたいと云ふ考へで、学生の指導・監督を出来得る丈け致す、斯う云ふ所で八百八十六名の教職員を必要とすると云ふ訳であります。此人々が平生努力して、一万五千の学生を指導し、教育し、訓練しつつあると云ふのが此学園の近状であります。

偖諸君が寄せられたる寄附金の効果はどう云ふ形式で現はれたか、直接には此大講堂であります。此大講堂は老侯生前特に希望されたものであります。故に私も思立つたのであります。老侯は何時も「俺に屢々演説をさせるが、天幕の中や野天では困るではないか、俺も八十以上になつて居るから家の中で演説をさせて呉れないか」さう云ふことを私に申された。「そんなことを仰しやつても何より先きになければならぬものがありますから、まア御待ち下さい」と言つて居つたのであるが、生前老侯は斯る大衆の前に而も家の中で演説される機会がなかつたのであります。斯う云ふものが出来ることは老侯は深く希望して居られたのであります。其希望に副う――仮令死後でありましても――希望に副う是れ丈けの大講堂が出来たのを私は深く喜ぶのであります。又其寄附の一部は御承知の通り老侯の多年住はれた邸宅庭園、之を大隈家から寄附を受けました。早稲田大学は之に対して何等報謝をせずに置く訳には参りませぬ。故に多少の報謝を致したのであります。

学園の近状は大体から申しますと、大隈老侯居られました当時よりも決して衰頽して居りませぬ。衰頽して居らぬのみならず稍や老侯の居られた時よりも発達し進展して居る様に――我仏尊しか知りませぬが――私は考へます。それは何の為かと云ふと、大体に於て時勢の進歩の為であります。此大学が時勢の必要に応ずるからであります。時勢の進歩、而して諸君の同情、是が大原因であることは申す迄もありませぬが、又此学園関係者の努力も一方ならぬものであつたと云ふことを諸君に於て御諒察を願ひたいと思ひます。……固より老侯の遺志の如く我々早稲田学園の学徒は理想を前に掲げて進みましたし、未来も進まんとするものであります。併ながら其理想は――後に此所で歌ひまするが――我早稲田大学の校歌にある所謂「現世を忘れぬ久遠の理想」であります。足許を浮して理想、否空想を追ふほど世の中に危険なことはありませぬ。固より老侯の言はれし如く、理想を前に掲げなければならぬが、此現世を忘れてはならぬ。故に早稲田大学の校歌は我々に教へて「現世を忘れぬ久遠の理想」と歌ひます。之を以て我々の掟と致し、我々のモットーとしやうと、斯様我々教職員は皆思つて居る次第であります。

最後に私は此学園の代表者として、満場諸君に更に又御願をして置きます。どうか過去に於けるが如く未来も又此学園に同情を寄せられんことを希ひます。其御同情は必らずしも有形的・設備的の事のみに就いてではありませぬ。形以下の事のみではございませぬ。苟くも大学なるものは形以上のことに就いて理想を持たなければならぬ。故に我早稲田大学は三十年式典の当時から三つの教旨、則教育の趣旨を掲げて居ります。学問の独立、学問の活用、模範国民の造就、是れであります。一方に於ては大学者を造らなければなりませぬ。然し是はさう多数造る必要はない。併し造る以上は大学者でなければなりませぬ。世界的名声ある実力ある大学者でなければなりませぬ。又折角修めた学問を実際に活用する人を造らなければなりませぬが、殊に多数の模範国民――一般の国民の上に立つて、此国民を率ひて国家を泰山の安きに置くのみならず、益々此国家を進歩発達せしむる模範国民――を造ると云ふことが、苟くも大学教育なる者の大任務である。教旨は前に述べた通、三つありますが、一番卑近ではあるが多数に当嵌めると、此模範国民の造就と云ふことが差向に於て最も必要である。斯う云ふ形以上の事に付いても、将来は諸君の御指導・御誘掖を願ひ、又形以下の事に付ても固よりでありますが、形以上の事に付ても御遠慮なく御注意を請ひたいと斯様思ひます。即ち一言に申しますると、大隈老侯其死に先立つて私に申されました「理想を前に掲げて進め」、其遺言を奉じて我々は理想を前に掲げて進む積りでありますから、それに付けても諸君の御指導・御援助・御注意、之を希はなければならぬ。 (『早稲田学報』第三九三号 二―九頁)

 次いで常務理事田中穂積は会計の状況ならびに学苑の近状につき、大要次の如く述べた。すなわち会計については、大正八年より九年にかけて募集した大学基金会計の申込総額は一、〇七〇、〇〇〇円(払込金額八二三、〇〇〇円余)に達し、これを利殖して得た九四一、〇〇〇円の収入総額に対し、高等学院建設費七二四、〇〇〇円、国庫供託金(九〇〇、〇〇〇円)の一部二一六、〇〇〇円および募金経費二、〇〇〇円余の支出があったこと、故大隈総長記念事業については、募金申込総額二、〇三九、〇〇〇円余(九月二十日迄の払込金額一、五六七、〇〇〇円余、銀行利子八八、九〇〇円余)と、画家、演劇関係者等芸術家の協力による各種催しの収入四三、〇〇〇円余、合計一、七〇〇、〇〇〇円の収入に対し、記念講堂建設費六六二、〇〇〇円余、大隈侯爵家に対する納付金六七〇、〇〇〇円、その他借入金利子二五、〇〇〇円、募金経費二四五、〇〇〇円余、開館式経費一五、〇〇〇円の支出があったこと、および剰余金の使途については維持員会に諮り、寄附の趣旨に違わざるよう支出する考えであることを述べた。学園の近状については、三十周年式典以来十五年間の発展につき、学生数が七、〇〇〇から一五、〇〇〇に増加したこと、大学の経常費が二四〇、〇〇〇円から一、六〇〇、〇〇〇円に膨脹したこと、第一・第二高等学院の新設、同じく旧来の運動場に継ぐ第二の運動場の新設、新図書館の落成、学生ホールやプールの新設および理工学部において製図教室、建築標本室、水力実験室、電気実験室の如き「ラボラトリー」の新設等があったこと、また大震災で蒙った損害は約五〇〇、〇〇〇円に上ったがすべて復旧し、震災前よりも体裁を整えるに至ったこと、国庫納付金は完納できたこと、夜間学校である早稲田専門学校を開設し、また高等工学校を開設する予定で計画が進行中であることを述べた。次いで図書館の蔵書が六〇、〇〇〇冊から三〇〇、〇〇〇冊に増加し、十五年間に六〇名余の留学生を海外に派遣し、欧米各地に常時一〇名内外の留学生がいることに触れた。そして最後に列席者の同情と協力を求めて報告を結んでいる。

 このあと建築主任佐藤功一が前掲(二四四―二四五頁)のような報告を行い、次いで寄附者総代渋沢栄一が老軀をおして壇上に立ち、今回の寄附金が正当に用いられたのを証する旨述べた。渋沢は講演中腹痛で一旦退座するというハプニングがあったが、学苑のため好意ある発言をしたのである。そのあと文部大臣水野錬太郎は、東京専門学校に講師であった頃を偲びながら、学苑今日の発展を讃え、今日では官・私大学の上に何らの差別をなさざるに至った、文部大臣はこの意味で、今後一層私立学校を援助し、これを発達させて、なお一段の国家・社会に対する貢献を望みたいと述べた。次いで校友総代として、在学中最も熱心に図書館を利用した学生と言われた元駐米大使の埴原正直(明三〇英政)が祝辞を述べ、大隈信常の納付金に対する謝辞があった。最後に校歌斉唱を以て式典を閉じ、続いて大隈庭園における園遊会に移った。

 またこの日から二十二日まで三日間、記念大講堂で左の如く学苑諸学科担当の権威を網羅した記念大講演会を開催、学苑の学生は勿論、都下各大学の学生および一般の聴講者で連日満員の盛況であった。

二十日

文化と文明と弁証法 教授文学博士 金子馬治

現代政治界の重大問題 教授法学博士 浮田和民

記念大講堂の建築 教授工学博士 佐藤功一

国民経済前途の観測 教授法学博士 田中穂積

実学論 高等学院教授 会津八一

二十一日

完成された過去の二大国民道と其調和 教授文学博士 五十嵐力

電気と宇宙 教授工学博士 山本忠興

休業銀行問題の法律観 教授 寺尾元彦

労働問題に対する一考察 教授法学博士 塩沢昌貞

東洋文明の主格的地位 教授 松平康国

社会教育の趨勢 教授 北沢新次郎

二十二日

経済現象の観照と景気循環の必然性 教授 服部文四郎

自由と愛 教授 中桐確太郎

文芸の社会的基礎 高等学院教授 宮島新三郎

古代法と近代法 教授法学博士 遊佐慶夫

進歩の要素 教授法学博士 平沼淑郎

(『早稲田学報』第三九三号 三三―三四頁)

 十月二十一日には総長招待の園遊会が開かれたほか、この日から二十四日まで四日間に亘って記念大競技会が左の如く開かれ、盛況であった。

日時 場所 競技名

二十一日午前十時 大学道場 剣道

二十一日午後二時 大学道場 柔道

二十二日午前十時半 戸塚球場 ア式蹴球

二十三日午前十時 大学コート 庭球

二十三日午後二時 戸塚球場 ラ式蹴球

二十四日午後二時 第一高等学院トラック 陸上競技

日時 場所 競技名

二十一日午後二時 大学道場 弓道

二十一日午後二時 戸塚球場 野球

二十二日午前十一時 第一高等学院雨天体操場 バスケットボール

二十三日午後二時 道場外土俵 相撲

二十四日午前十時 戸塚球場 ホッケー

二十四日午後二時 第一高等学院プール 水泳

 なお二十四日まで大講堂・図書館・理工学部校舎を開放し、午前九時より午後五時まで(二十二日に限り大講堂は正午まで)一般の縦覧に供したところ、毎日一五、〇〇〇人に及ぶ見学者があった。また本学苑学生に対しては、二十五日を大講堂縦覧日とした。

 十月二十二日午後六時より、新装成った学生ホールで地方校友招待会が開かれ、飯田寛人(明三六邦政)はじめ一一五名の校友と高田総長以下一四名の教職員が列席した。席上高田は今回の式典挙行につき、四十五年を祝うこと、記念事業完遂について感謝の意を表することのほか、大隈重信の追憶と、母校の真相を全日本、否世界に対して示すこととが目的であったと述べ、早稲田大学は宣伝上手だから今度の式典も宣伝であろうとの世評を打ち消している。高田はそれにつき「世間のマーケツト・スクールでも皆一パイです。一万五千の学生を有し八百の教職員を以て之を指導して居る所のこの大学はマーケツト・スクールではありませぬ。八百の教職員は誠心誠意其職に当つて居る。指導監督の責任を負うて居る。八百の人間が指導・監督するならば一万五、六千の世話位は勿論焼けるのである……大学園であるから学生が多くて困つて居る位であるのに、なお宣伝をして学生を募集する必要が何処にありましようか」(『早稲田学報』第三九三号四八頁)と、内輪の会合だけに大見得を切っている。創業以来苦心を重ねて来た高田にとり、こう断言できるほどに育った学苑の姿は、さぞ会心のものだったろうと思われる。

 なお高田は会場に充てられた学生ホールにつき、エール大学見学の際、校友朝河貫一の案内で学生ホールで馳走になった経験などから、学苑にも是非その施設が欲しいと思い、小池国三の助力を得て、日本では未だ官立学校にもどこにもないが、早稲田大学が「貧弱なりとも率先して造つたものであります」(同誌同号四六頁)と説明し、高田ら学苑当局者が乏しい財政の中から、教育・研究施設とともに、学生の集会用或いは厚生・娯楽用の施設の整備にも努力し、且つ成果を挙げているのを、この機会に校友に示したのであった。

 十月二十三日午前十一時三十分から大講堂で三、〇〇〇名を超える出席者を迎えて秋季校友大会が開かれ、園遊会・余興・福引などで和気藹々たる一日を送った。このとき校友会の常任幹事名取夏司は、左の如く挨拶している。

此度の四十五年記念に校友会として致しました事は幹事会で決議の結果、長らくの間母校の為に尽されてをられる教職員諸氏の恩給基金として金一万円を学校に差上ました事と、母校の為に始終御尽力下さる渋沢子爵へ記念品を差上げた事であります。学校当局は教職員方の待遇に関しては、種々と意を用ひてをられますが、老後の手当の方迄は仲々充分には手が届き兼ねる事と存じ上げまして、校友会の貧弱の経済の中から僅か乍ら一万円を差上げた訳であります。それから渋沢子爵は早稲田には特に長く骨を折られ、記念事業の時等は老軀を提げて東奔西走して下さいました御尽力に対し、吾々校友として感謝の微意を表し度いと存じまして、記念品を贈呈した次第であります。由来日本の金持は、官学に対しては莫大な金を寄附しますが、私学に対しては一向に振向いても見ません。官学は国庫の負担によつて充分なる経費を以つて維持されてをるのでありますから、私人の保護は必要としない。その保護は私学にこそ必要なものであります。幸ひ我早稲田は学園関係者以外の方々の御同情も多く今日の隆盛を見るに至りましたことは喜ばしい次第であります。此度吾々が種を下しました恩給基金等も、日本の富豪の中から之を培つて、十倍百倍にして呉れる人が出そうなものだと考へてをりますが、然し吾々が下した種は吾々の手で培つて行き度いものだと思ひます。 (同誌 同号 五二―五三頁)

 右の恩給基金の贈呈を受けた田中穂積常務理事は、大学代表として謝辞を述べ、当時学苑では老齢の教職員に対し恩給制度を布く計画があったが、約二十年間に積み立てた金額が僅か十一万円に過ぎず、やむなく十年以上勤続者に一千円の生命保険を付けるに止まったので、その後二十年以上勤続者には二千円にしたいと努力し工面していたような状態であったから、一万円は大変有意義で、日清生命保険、日清印刷および早稲田大学出版部からの寄附六千円と合せた一万六千円を基金として、漸く一部保険金倍増の実現に漕ぎ着けることができたと、「経営者の苦衷」を披瀝している。この日高田総長は会長として「早稲田大学の今誇りとすることの出来る唯一の事は外の学校よりも〔此学校と校友とが〕親密であると云ふことである」(同誌同号五七頁)と挨拶したが、記念事業の成功といい、恩給基金の寄附といい、また校友大会に三千の出席があったことといい、全くその言葉通りと言うべきであろう。

 十月二十四日には教職員相互親睦の会である温交会の団欒会が開かれ、これを以て記念祝典の幕を閉じたのである。